昭和歌謡文化の輝きを後世に繋ぐことが、本会の目的です

第10回研究発表会(2017/2/4)

第十回 昭和歌謡文化継承委員会 研究発表会

横浜慕情 Port of the latter part of winter


◆日時
2017.2.4 SAT  OPEN 17:30/本編START 17:30

◆会場

『BarBarBar』

神奈川県横浜市中区相生町1‐25 若葉運輸ビル2F

☎045-662-0493

※関内駅南口より徒歩4分

◆出演者

仲村瞳(ボーカル)、タッキー(ボーカル)、サリー久保田(ベース)、国吉静治(フルート)、中森泰弘(ギター)、中山努(キーボード)、笹井享介(ドラムス)、松本健一(サックス)、井谷享志(パーカッション、東陽片岡(総合司会) ゲスト・平塚新太郎(日本最長老の流し)

◆参加費

お一人様 ¥10,000 飲み放題&軽食(ビュッフェ)付き


■セットリスト&曲解説■

『雪が降る』
昭和38年6月発売 歌:アダモ

作詞:アダモ 訳詞:安井かずみ 作曲:アダモ 編曲:Jtom

レーベル:東芝音楽工業
『Tombe la neige(雪が降る)』は、1963年(昭和38年)、ベルギーでリリースされ世界的な大ヒットとなった楽曲。アダモは、イタリア生れのベルギー人で、詩人で作曲家で歌手である。オリジナルのフランス語以外に、日本語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、トルコ語、アゼルバイジャン語、ペルシア語などでもリリースし、多くの国で愛される曲になった。各国の言語、もしくはオリジナルのフランス語で、世界中のミュージシャンによる多くのカヴァーも存在している。ポール・モーリアによるインストゥルメンタルのカヴァーなどもある。日本語版でアダモは、安井かずみの訳詞で歌っているが、尾崎紀世彦のカヴァーでは、歌詞が一部改変されている。また、越路吹雪は、岩谷時子の訳詞で歌っている。


『伊勢佐木町ブルース』
昭和43年1月発売 歌:青江三奈

作詞:川内康範 作曲:鈴木庸一 編曲:小泉宏青

レーベル:ビクターレコード

イントロ部分の「アァ〜ン、アァ〜ン」という悩ましい吐息が印象的なご当地ソングの名曲。収録の前日までは、この吐息を入れる予定はなく、ギターのボディを叩く音だった。しかし、ディレクターは、納得ができずに試行錯誤していたところ、青江三奈が出した、咳を抑えるような声に魅かれ、採用したという裏話がある。発売直後はあまり売れなかったものの、地元の商店会や、伊勢佐木町のヨコチク(明治45年に設立された、横浜最古のレコード店。平成15年に閉店)が宣伝に尽力。その支えもあり、100万枚を超える大ヒット曲となった。青江美奈の当時の映像を見ると、とても27歳とは思えない妖艶さに驚かされる。伊勢佐木町は、後年、フェークデュオ『ゆず』が路上ライブをはじめた地でもあり、音楽との縁の深さを感じる土地である


『ビューティフル・ヨコハマ』
昭和45年11月発売 歌:平山三紀

作詞:橋本淳 作曲・編曲: 筒美京平

レーベル:日本コロムビア
平山三紀のデビュー曲。同時期のテレビコマーシャルで、「モーレツからビューティフルへ」という富士ゼロックスのキャッチコピーが話題を呼んだ。当時、高度成長期のモーレツ時代からの転換期ということもあって、「ビューティフル」という言葉がひとつの時代のキーワードになっていたようだ。横山剣、近田春夫などといった実力派ミュージシャンが、この曲を「お気に入りの一曲」として挙げているほどファンの多い隠れた名曲。レコードのジャケット写真は横浜の山下公園で撮影され、平山本人も特に気に入っているのだとか。ちなみに、二番の歌詞に出てくる名前の「ハルオ」は、橋本淳の息子の名で、「ゼンタ」は、筒美京平の息子の名である。平山三紀は、この次にリリースした『真夏の出来事』の大ヒットで、一躍スターダムにのし上がる。


『港が見える丘』
昭和22年発売 歌:平野愛子

作詞:東辰三 作曲:東辰三 編曲:小澤直與志
レーベル:ビクター
終戦直後の代表的な流行歌のひとつ。横浜の『港の見える丘公園』にはこの歌の歌碑が設置されている。しかし、この曲の題材となった丘については、東辰三の出身地である神戸と横浜の二つの説がある。東の子息である作詞家の山上路夫は「神戸と横浜、両方の港をダブらせて作ったのではないか」と述べている。ザ・ピーナッツの『手編みの靴下』(作詞:岩谷時子 作曲:宮川泰)は、この歌をベースに作られている。また、岩谷時子が詞を改作したのが園まりの『逢いたくて逢いたくて』である。『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』で、旅回りの歌手リリー役の浅丘ルリ子が劇中で歌い、青江三奈、ちあきなおみ、藤圭子、美空ひばりなど、名だたる女性ボーカリストがカヴァーしている。


『追いかけてヨコハマ』

昭和53年2月発売 歌:桜田淳子

作詞・作曲:中島みゆき 編曲:船山基紀

レーベル:アードバーク

桜田淳子22枚目のシングル。21枚目のシングル『しあわせ芝居』に続き、中島みゆきが作詞、作曲を手掛ける。中島みゆきは、この前年に『わかれうた』が大ヒットしていた。当時は、ニューミュージック系の人気シンガーソングライターがアイドルに楽曲提供をするのが盛んだった時代で、数々の名曲が誕生している。『追いかけてヨコハマ』は息継ぎが難しく、中島みゆきが後にセルフカヴァーをした際に、息継ぎの箇所を作り忘れたことに気付いたとして「桜田さん、ゴメンナサイ。」と語っている。生放送で生演奏の歌番組で、踊りながら歌いこなしていた、桜田淳子の歌唱力の高さが改めて感じられる。昭和54年には研ナオコが『しあわせ芝居』とともにカヴァーした。


『恋人も濡れる街角』
昭和57年9月発売 歌:中村雅俊
作詞・作曲:桑田佳祐
編曲:桑田佳祐・八木正生
レーベル:BLOW UP/日本コロムビア
中村雅俊17枚目のシングル。サザンオールスターズの桑田佳祐が中村雅俊のために書き下ろした曲。昭和56年、中村雅俊は『心の色』、サザンオールスターズは『チャコの海岸物語』がヒット、ザ・ベストテンで1位争いをするなど、歌番組で度々共演した事がきっかけで親交を深め、楽曲提供に至ったと言われている。同年昭和57年深作欣二監督の映画「蒲田行進曲」の主題歌(エンディング)になっており、この主題歌に決まった事から桑田佳祐が作った当初『恋人も濡れる横浜』だった曲名の横浜を街角に変更。歌詞に馬車道が登場していることからファミリーレストラン「馬車道」の社歌にもなっている。横浜を舞台に、妖艶で特徴的な歌詞とムード歌謡の要素もある中村雅俊の代表作の一つである。


『ワシントン広場の夜は更けて』
昭和39年7月発売 歌:ダニー飯田とパラダイスキング

作詞:David Shire,B.Goldstein 訳詞:漣健児 作曲:David Shire,B.Goldstein 編曲:ダニー飯田

レーベル:東芝レコード
アメリカのデキシーランドジャズバンドであるヴィレッジ・ストンパーズの昭和38年のヒット曲をカヴァー。昭和30年に結成したダニー飯田とパラダイスキングは、ハワイアンバンドにはじまり、昭和33年からロックに傾倒し洋楽を訳詞する“訳詞ポップス”を確立した。昭和32年から水原弘と石川進がボーカルとして参加し、水原が脱退した昭和33年からは坂本九が加わった。他に、九重佑三子や赤木良輔など、多くの名ボーカリストを輩出している。当初、米軍キャンプが活躍の場だったが、日劇ウェスタンカーニバルに参加で一躍スターダムにのし上がった。サントリーオールドのCMソング『夜がくる』(昭和49年/作詞・作曲:小林亜星)と同曲と勘違いしている人も多いが、まったく別の曲である。


『赤坂の夜は更けて』
昭和40年12月発売 歌:西田佐知子

作詞:鈴木道明 作曲:鈴木道明 編曲: 川上義彦

レーベル:ポリドール・レコード
この曲は、和田弘とマヒナスターズや島倉千代子など複数の歌手との競作としてリリースされた。その中で最も売れたのが、『アカシアの雨がやむとき』(昭和35年)の大ヒットにより、不動の人気を得ていた西田佐知子のシングルだった。のちに、ちあきなおみ、藤圭子、麻生よう子など、多くの実力派歌手がカヴァーをする時代を超えた名曲である。西田佐知子は、結婚後(夫は、関口宏)、ほとんど歌手としての活動はしていない。昭和57年の『テレビを見ている女』のリリースを最後に専業主婦となった。作詞、作曲をした鈴木道明は、TBSの名ディレクターでありながら、作詞、作曲家としても活躍した人物。西田佐知子の『女の意地』や、日野てる子の『夏の日の想い出』をはじめ、多くの名曲を手掛けている。


『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』
昭和50年月発売 歌:ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

作詞:阿木耀子 作曲:宇崎竜童 編曲: ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

レーベル:東芝EMI
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの4作目のシングル曲なのだが、発売当初は、『カッコマン・ブギ』のB面だった。ほとんどの歌詞が語りという斬新な曲で、「アメリカのトーキング・ブルースをヒントに作った」(宇崎竜童談)のだとか。同じジャンルの昭和歌謡に、左とん平の『ヘイユーブルース』(昭和48年)や、かまやつひろしの『ゴロワーズという煙草を吸ったことがあるかい』(昭和50年)などがある。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』は、オリコンチャートにおいて5週連続で1位を獲得し、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは、第26回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。なお、この曲は、当時リーダーであった宇崎竜童の妻であり作詞家でもある阿木耀子の処女作でもある。


『ブルー・ライト・ヨコハマ』
昭和43年12月発売 歌:いしだあゆみ

作詞:橋本淳 作曲・編曲:筒美京平

レーベル:コロムビア
昭和39年にレコードデビューした、いしだあゆみの26枚目のシングル。作詞家の橋本淳はこの曲のイメージを、「港の見える丘公園」から見た、横浜と川崎の工業地帯の夜景と、カンヌの夜景の美しさを重ね合わせたもの、と語っている。意外にも発売前はあまり評判が良くなく、歌詞やカタカナのタイトルも不評で、横浜のレコード店でも置くのを断られることがあったと言われている。リリース翌年の昭和44年に大ヒットし、150万枚を超える売り上げを記録。いしだあゆみは同年の紅白歌合戦に初出場を果たす。平成20年に行われた、「横浜開港150周年記念式典市民アンケート 好きな横浜の歌」では3673票を集め、1位を獲得(2位は1570票の『赤い靴』)。時代を超えて愛され続ける、横浜ご当地ソングの代表曲である。


『埠頭を渡る風』
昭和53年10月発売 歌:松任谷由実

作詞:松任谷由実 作曲: 松任谷由実 編曲: 松任谷正隆

レーベル: EXPRESS
松任谷由実の12枚目のシングル。松任谷由実は、昭和50年にアレンジャーの松任谷正隆と結婚し、荒井由実から現在の名前に変名して音楽活動を続行した。結婚直後は活動を控えていたが、昭和53年から昭和58年にかけては、オリジナルアルバムを毎年2枚リリースするなどハイペースで曲作りに励んでいる。松田聖子、小林麻美、ブレッド&バターなど、様々なアーティストにも曲を提供するなど、ユーミンの最も脂の乗りきった時期だといえよう。この『埠頭を渡る風』は、そんな精力的な音楽活動の口火をきるように発表された曲である。リゾート地で開催するライブのスタイルを確立したのもこの時期で、この曲は、『surf&snow in逗子マリーナ』のライブのラストでは、毎回歌われている。ちなみに、『埠頭を渡る風』の埠頭は、晴海埠頭のことらしい。


『本牧ブルース』

昭和44年2月発売 歌:ザ・ゴールデン・カップス

作詞:なかにし礼 作曲・編曲: 村井邦彦

レーベル:東芝音楽工業
ザ・ゴールデン・カップスの6枚目のシングル。レコードジャケットには、『遂に出た! 横浜サウンド!!』と記されている。ザ・ゴールデン・カップスは、横浜・本牧に今でも営業しているライブハウス『ゴールデンカップ』の専属バンドだった。当時、アメリカの音楽は半年ほど遅れて日本に入ってきていたが、米軍人住宅や、米軍人の集う店が並ぶ本牧は、最先端のアメリカのブルースやR&Bを聴くことができる場所だった。ザ・ゴールデン・カップスはそういった楽曲をいち早くカヴァーし、音楽ファンを熱狂させていた。リーダーのデイヴ平尾を中心に、柳ジョージやエディ藩、ミッキー吉野(のちにゴダイゴのリーダーとして両バンドを兼務)、など多くの著名ミュージシャンを輩出し、日本の音楽界に大きな影響を与え続けている伝説のバンドである。

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